2023年3月10日金曜日

2023.03.10 フリーランスになるということ2 その前の就活

2023.03.10 フリーランスになるということ2 その前の就活

専門学校2年のはじめくらいから就活が始まった。

学科は録音もPAも学ぶコースでしたが、録音よりの先生が多かった。
画像は後年2012年頃、師匠のJazzエンジニア 及川公生先生と(この辺りはまた別の機会に)

まず一番目指して受けたのは、日本を代表する『Sニー』。ハードもソフトも『イッツアSのキーワード』、『S濃町スタジオ』、とにかく受けた。(入れたらいいな、くらいの気持ちでした、、、ダメ元)

6月くらいだったか、2次面接までいって、自己PRの音源を持って、信濃町のSスタジオへ。
『ほえーここが、あのスタジオなのか』と感嘆した。
面接はあんまりうまくいかず、“来るべき映像時代に対してどうお考えですか?”の設問に、『そういう時代こそ音だけのメディア』と答えてしまった(→これが敗因と思ってる)。
ただ、終了時になんとなく、あーこれで終わりかも知れないから、ダメ元でスタジオ見せてくれませんかと直談判して、さらっとNEVEの部屋を見る。
たしか、伝統の1スタジオ2コントロールルームだったような、、。
まあすっごい思い出は作れたわけですが、もちろん不合格。

その後夏頃に、NTS(技術関連会社)または本体(NHKの職員)を受けてみないか?と誘われて、その時考えたのです。

・本音は音楽がやりたい(PAじゃなくて録音)師匠がJazz録音だし
・ドキュメンタリーは嫌いじゃない、Nスペ。
・ドラマ→見るのは好き、大河ドラマで時々のめり込んで毎週見たりしてた。
・ラジオっ子ではあるが、ニッポン放送かFM横浜ならいい。
・でもよくわかんないけど社員だ。

だんだん妄想が膨らんで、どうも『NHK』というところは、ドラマやドキュメンタリーの音楽を、自局で録音しているらしいぞと。
Kさんごめんなさい。
画像は入局後の1994年くらい、『歴史発見』という番組のテーマ録音CR506。
入局してからわかったことではあったが、社内にレコスタがあった。

実はわたしの青春時代1987〜92年は、バンドブームもさることながら、バブル最盛期。
民放のテレビドラマの音楽も、ドカンとビッグヒットが生まれるような時代だったんです。

その中でも、ある作曲家にすごく注目してた。
日向敏史さんという方。

"東京ラブストーリー"
"愛という名のもとに"
"一つ屋根の下"
何回このCDを聞いたことか。
全てこの方で、他にも、テレビドラマの劇伴(サウンドトラック)が、予算をとってちゃんと録音されてた時代、面白い仕事があるんだなと。

夏が終わり、試験に受かり。
やべえ、学校推薦だと辞退も微妙だし、入ったら辞められない、どうしよう。
ただ、自分の性格でレコスタに行く根性ないのと、変化がある仕事の方が向いてるかな?と思い、受諾して9月ごろに就活は終了。
翌年の4月にそのまま入局(入社)するわけです、1992年。

劇伴という響きに憧れて入社して、すぐには音楽グループには配属されなかった。
FMのDJ番組 60分2-3本録りとか。
画像はかなり最近のスタジオです、こんなに綺麗なスタジオじゃなかった。
イメージです
あとは学校放送番組のロケとか。
撮影用のポーズです

2年目にドラマのチームに入り、いやだなあ、雪駄を履いて長時間ブームを動かす手伝い、カメラのケーブルが音が出るので、ケーブル捌き。
ドラマはこんな大型ブームにガンマイクを使って、セリフを録るんです。
下のやつは人が乗って操作する

もうムリと思ってたところで、デスクからご褒美が。

今は違うと思うんですが、NHKのドラマ音楽は、ドラマのミキサーがやっていました。その時ちょうど朝の連続テレビ小説のチームにおり、たしか、"富はマルチのパンチイン出来るよね?"と言われて、即答。

またまたKさんごめんなさい。
後で聞けば、やっぱり腐ってたんですよね。音楽やりたいのになあと。

渡辺俊幸先生のドラマ新銀河、朝の連続テレビ小説などの、劇伴録音アシスタントをやるようになったわけです。
劇伴のアシスタントというのは、かなりの重責です。
一つパンチインを間違えたら、消える。
スタジオミュージシャンは1分で多く弾いたら増額。
インペグさんの目がひかり、作家の先生はもう意識朦朧(→大体朝まで寝てないでスタジオに来る)、ミキサーはバランスを作ることに専念。

20歳からの12年間、2〜4年目、最後の9〜11年くらいを渋谷で、そういった業務”も”してました。

その後フリーになるのですが、フリーになる、会社を辞めるといったときに、ある作曲家の方が、餞別をくれたのです。
作曲家の牟岐礼先生(西岡龍彦さん)


全然ミキサークラスではないわたしを覚えてくれていましたが、その作曲家の方の作る音楽は、何か新鮮でした。
東欧のドキュメンタリーなど、今でも覚えています。
フリーになって2年目で、英語教材の音楽劇伴録音もすごく良い思い出です。

月日は流れて、30代後半、チャンスが訪れました。
知人の紹介で、憧れの作曲家とお仕事ができるチャンス到来。

まさかの、日向敏史さん。
日向敏史


プロジェクトの録音も終わり、その後もETVやフジテレビのちょっとしたドキュメンタリー録音など、編成は大きく無いけれども、丁寧に創る音楽の時間。
とにかく刺激的でした。

極め付けは、コロナ禍の学内の実験録音。
本来はPiano+チェロ3回ダビングで作った番組のテーマソングが素晴らしすぎて、それをヴァイオリンでやりたい。
特に発表するわけでもないけれども、作曲の手法と録音手法の融合。
恐る恐る、ご本人に電話をして快諾をいただいた。

しかし、驚くのはその1時間後。
『あれは、チェロの音域で描いたから、ヴァイオリンに書き直してあげたよ』
こういうことは書いてはいけないのかもしれないが、泣きそう。てかすげえ。
3パート場所を移動して録音する

ヴァイオリンJさんありがとう


無事にそのヴァイオリンで音出しをして、音源をご本人にも送り、コロナで人に会えない中、『自分がいいな』と思った気持ちを伝えて、本当に良かった。

大事なのは『想い続けること』、なんとなくでもいいから。

この辺りは、また別の機会に書いてみようと思います。 

もう春です。

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